大判例

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東京地方裁判所 昭和38年(刑わ)2811号 判決

被告人 千田謙三

昭六・一〇・二二生 茶商

福井駿平

昭四・四・一生 団体役員

主文

一、被告人千田謙蔵を懲役六月に処し、

被告人福井駿平を懲役四月に処する。

但し両被告人に対しこの裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

一、訴訟費用中昭和三九年三月一〇日以前に各被告人について各別に生じた費用はすべて被告人各自の負担とし、その後の費用は昭和三九年一二月二四日証人里村光治に支給した分を除き、すべて被告人両名の平等負担とし、右里村証人に支給した分は被告人福井駿平の負担とする。

理由

第一、罪となる事実

被告人千田謙蔵および同福井駿平はいずれも昭和二七年当時東京大学経済学部に在学する学生であつたが、同年二月二〇日午後七時三〇分頃から同八時三〇分頃までの間東京都文京区本富士町一番地東京大学法文経教室一号館において

一、被告人千田謙蔵は

1  数名の学生と共同して同館内二五番教室内後部で同教室から出て行こうとしている本富士警察署員巡査柴義輝に対し、被告人千田において同人の右腕を握つて押し止め、振り切つて出ようとする同人と揉み合い、他の学生において同人の腕を捻じ上げ頭部、肩などを殴打したうえ、同教室に当時設けてあつた舞台前で同巡査のオーバーの襟を掴んで強く引き、

2  二名の学生と共同して同教室に隣接する学生喫煙所で同警察署巡査茅根隆に対し同人の両手を押え、同人のワイシヤツのポケツト内に手を入れ、上衣内ポケツトのボタン穴に紐で付けてあつた警察手帳を引つ張つてその鳩目部分を引きちぎる

という暴行を加え、

二、被告人福井駿平は数名の学生と共同して同教室内で右巡査茅根隆に対し、右学生らにおいてその片手を後ろに押し上げ、被告人福井において同人の後頭部を強く押え且つその面部に唾を吐きかけるという暴行を加えた。

第二、証拠の標目

右の事実は次の証拠(略)によりその証明十分である。

なお右に「旧一審千田事件」もしくは「旧一審福井事件」というのは、以下の説示においても同様であるが、被告人千田に対する事件につき最高裁判所判決による差戻前の第一審、第二審をそれぞれ「旧一審千田事件」、「旧二審千田事件」と略称し、被告人福井に対する事件につき東京高等裁判所判決による差戻前の第一審を「旧一審福井事件」と略称する例によるものである。

第三、本件発生の経過および状況

被告人らはいずれも各自の暴行もしくは他の学生らと共同して暴行したとの事実を否認している。また仮に暴行の事実があつても、それは違法性を阻却される場合であるとも主張している。そこでこれらの主張を排斥するに至つた理由を示すに先立ち、本件の発生するに至つた経緯と被告人らの判示行為をめぐる状況について当裁判所の認定した事実を示すと次のとおりである。

一、本富士警察署警備係の活動

旧一審千田事件第四回および第五回公判調書中証人茅根隆、同第七回公判調書中証人藤原貢、同野口義の各供述記載、警視庁警察署処務規定、押収の警察手帳三冊(前掲)、当審証人西田勝の供述を綜合すると次の事実を認めることができる。

警視庁本富士警察署警備係は本件発生当時主任一名、係員七名で構成され、管内の警備、警備上必要な情報収集ならびに渉外に関する警察活動を担当していたものである。そして同係が情報収集活動の対象として管内で重点を置いていたのは東京大学であつた。それは同大学の構内が管内で広い地域を占めているばかりでなく、同大学は約二万人に及ぶ学生、職員を含む巨大な自治組織であつて、情報の収集が比較的容易でないのに拘らず、同係の信ずるところによれば全学連、都学連、日本共産党東京大細胞などが東京大学の自治に隠れて、非合法な政治活動をする虞れがあつたからである。

このため同係に属する巡査ら(本件発生当時は茅根、柴、里村、古田、古屋の五名)は少くとも昭和二五年頃から本件当時に至るまで私服で殆ど連日のように大学構内に入り、単に掲示板や大学職員などから情報を引き出すに止らず、或は学生大会に潜入し、或は学生自治委員会の会話を盗聴し、或は学生運動の活動分子と目される者の動静について張込、尾行を行うなどの方法によつて学内の状況を偵察していた。

二、東大劇団ポポロの公演と警官の立入

当審証人吉沢四郎、同茅根隆、同柴義輝、同里村光治の各供述(但し茅根、柴両証人については証拠の標目に掲記のように供述もしくは供述記載)ならびに旧一審千田事件第四回および第五回公判調書中証人茅根隆、同第三回公判調書中柴義輝、同第二回公判調書中里村光治の各供述記載、前掲の検証調書の記載、押収してある昭和二七年二月一四日付東京大学学生新聞(同押号の一)を綜合すると次の事実が認められる。

昭和二七年二月二〇日東京大学公認の学内団体の一つで同大学の学生職員によつて構成されている東大劇団ポポロ(以下劇団ポポロという。)はその演劇発表会を同大学法文経二五番教室(以下教室という)で開催した。この開催については学内掲示板にその旨の掲示がなされたほか同月一四日付の東京大学学生新聞の一面上部中央に『再軍備反対署名始る。反植民地デーへ。「ポポロ」発表会など』というかなり大きな見出しの下に「二月二一日の反植民地デーを前にして都内各学校で種々催物の準備が行われているが、それらの行事の一つとして東大では二〇日に二五番教室で劇団ポポロが松川事件を取り上げた劇を上演する」趣旨の記事が掲載された。これらを見た右警備係の巡査茅根、柴、里村、古田はこのポポロ演劇の集会において或は日共東大細胞などが宣伝ビラを配布することはないかなど警備情報上の参考資料を収集する目的で教室に潜入しようということになつた。そこで同月二〇午後五時半頃里村と柴ならびに茅根と古田の二組四名の巡査は相共に東大構内に行き、教室付近で分散し、教室階下入口付近の路上で当日売の入場券を売つている状況を暫く見ていたところ、同巡査らの観察によれば学生以外の者と思われる者が数名入場券を購入して入場するのが見られたので各自一枚三〇円の入場券を買い、いずれも同日五時五〇分頃教室内に入つた。観客の殆どは教室の中央部より前の観覧席に坐つていたけれども、茅根巡査らはいずれも最初は教室最後尾で二階座席下のやや薄暗い所に着席して様子を窺い、やがて劇の開演と相前後して前方の席にそれぞればらばらに移つた。なお里村巡査は一旦教室外に出て、本富士署に解散させる程の異常はない旨報告したのち再び教室に入つた(古田巡査の位置については不明であるが、その余の三巡査の占めた位置、その移動状況、被告人らその他の学生、学校当局の職員らの位置関係について各証人の供述するところは、別紙添付の図面参照。この図面は昭和二八年九月一二日作成の検証調書添付第二図〔法文経二五番教室見取図〕の縮尺図面を用いて作成したものである)。

三、被告人両名を含む学生らの三巡査に対する暴行

前記第二の証拠の標目の項に示した諸証拠および旧一審千田事件第九回公判調書中証人中村隆次、同事件における証人斯波義慧に対する尋問調書中同証人の各供述記載、当審証人斯波義慧の供述(第四回公判期日)(但し被告人福井に対しては第四回公判調書中同証人の供述記載)を綜合すると次の事実が認められる。

1  (教室後部での柴巡査に対する暴行)

松川事件に取材した「何時の日にか」という劇の進行中柴巡査は同人の席と通路を隔てた右隣りの席に坐つていた学生二名が「私服が入つている、吊し上げようではないか」と言つているのを耳にした。同巡査は学生らに咎められることを避けるため場外に出るつもりで劇の幕が降りると直ちに席を立ち教室出口付近を目指して同教室後部まで出て行つたところ、被告人千田が同巡査の前に立ち塞がり、同巡査の右腕を握つて押し止め、「私服がいるぞ」と叫び、これを振り切つて出ようとする同巡査と揉み合いになつた。そこへ右千田の叫びに呼応して学生数名が駆け寄り、同巡査の両腕を捻じ上げ、頭部、肩等を殴打するなどの暴行を加えて同巡査を逮捕した。

2  (舞台前での巡査らに対する暴行)

この騒ぎにさらに学生が同巡査の周辺に集まり、満場騒然たる中にやがて学生らは同巡査を掴まえたまま舞台前に連行した。そうして

(一) 学生らは柴巡査を観客席の方に向つて立たせ、いやがる同巡査の両手を押え、頭髪を掴んで写真を撮つた。ここでまた被告人千田を含む数名の学生は同巡査を取り囲み、口々に警察手帳の呈示を求め、同巡査が持つていないと答えたのに対し学生の一人は「そんな筈はない、出せ」と言つて同巡査のオーバーの襟を掴んで強く引つ張つた。同巡査はこうなつてはやむを得ないと観念して、被告人千田に警察手帳を手渡したところ、同人はこれを一瞥して他の学生に渡し、二、三名の学生が順次手帳を見たうえで柴巡査に返した。

(二) この頃次のようにして逮捕された他の二名の巡査もまた教室舞台前に連行された。すなわち

(1) 先ず茅根巡査は「私服がいるぞ」という声を聞き、自分のことか暫く下を向いていたが、やがて後方で騒ぎが起こつているのを認め、急いで本署に連絡するため教室外に出、階段を降りて行つたところ、劇団ポポロの構成員であり且つ東大職員組合の役員である高橋昇らによつて「茅根待て」と呼び掛けられたが、そのまま安田講堂方向に走つて逃げた。しかし銀杏並木付近にいた四、五名の者、講堂方面から来た二名位の者らによつて逮捕され、教室内に強いて連行され、舞台前に連れて行かれた。

(2) 次に里村巡査は柴巡査が舞台前付近に連れて行かれるのを見たのち教室外に逃げ、安田講堂から農学部方向へ五、六〇メートル走つて逃げたが、これまた数名の者に逮捕され、強いて教室内に連れ戻され舞台前に連れて行かれた。

(三) このようにして先ず茅根巡査、次いで里村巡査と相次いで教室内舞台前の柴巡査の隣りに引き据えられ、それぞれ一人宛写真を撮られた。その後さらに三人並べて写真を撮られた。この際写真を撮られまいとして顔を下に向けた巡査らは学生らに髪の毛を引張つて顔を上げさせられ、唾を掛けられるなどの目に遭つた。

3  (教室内通路における暴行)

このようにしているうち幕合の時間約二〇分も既に過ぎたため劇団の者から会場外に出るようにとの要求があり、学生数人が巡査一名宛を取り囲む一団となり、柴、茅根、里村の順序で教室外の踊り場(学生喫煙所)に連れて行かれた。この途中

(一) 里村巡査は教室内後部の通路で氏名をきかれたり、警察手帳を出せと言われたりしたうえ、同巡査上着の止めボタンに紐で結び付けてあつた警察手帳を紐と一緒に引きちぎつて奪い取られるという暴行を受け、

(二) 茅根巡査は数名の学生に両手を取られ片手を後ろに押し上げるようにされ、ワイシヤツやネクタイを掴まれて教室内通路を連行される途中同巡査を取り囲む学生の一人であつた被告人福井によつて後頭部を強く押えられ、振り向いたところを顔に唾を吐きかけられるという暴行を受けた。

4  (踊り場〔学生喫煙所〕での三巡査に対する暴行)

このようにして三巡査共踊り場に連れて行かれたが、そこで

(一) 先ず学生らに両腕を押えられていた柴巡査は学生の一人から上着左内ポケツトに入れてあつた警察手帳を取り上げられ、

(二) 次いで茅根巡査は学生らに両手を抑えられ、被告人千田によつて同巡査のワイシヤツ左ポケツト内に手を入れて手帳を取り出され、上着左内ポケツトのボタンの穴に結んであつた紐から手帳の鳩目部分を引きちぎつて手帳を奪い取られるという暴行を受けた。

(三) その後学生らは三巡査を詰問し、学内立入の非を詫びる旨の文書に署名させ、本富士署から警官の出動を見たのちようやく同日午後九時五〇分頃になつて三巡査を解放した。

第四、被告人両名および弁護人らの主張に対する判断

一、被告人両名には暴行の事実はないとの主張について

1  (被告人千田について)

検察側のこの点に関する立証は主として茅根・柴両巡査の供述証拠によつているのに対し、弁護側はその信憑性のないことを極力主張している。この問題に対する当裁判所の判断は次のとおりである。

(一) 証人柴義輝(柴巡査)は、旧一審千田事件第三回公判(昭和二八年九月一六日)調書の記載によると、柴巡査が観客席「は」の列(別紙図面参照。以下同様)の中程に当る右端の席にいたとき2の通路を隔てた右隣席に山本篤三郎、その右隣に被告人千田がいるのを認め、且つ右両名が「私服が入つている、吊し上げようではないか」という趣旨の話をしているのを耳にしたことを述べたのち、この両名のうち山本篤三郎について「山本については千田を知つていると同じ位に知つています」(三〇六丁、190問答)と答えた旨の供述記載がある。

しかし(A)このように柴巡査が証言した山本篤三郎なる人物について弁護人から反対尋問を受けた後、まだ弁護人からなんら証拠申請がされていない時期(弁護人の山本篤三郎、斉藤文治についての証人尋問の申請は昭和二八年一〇月九日裁判所受付の書面によつてなされた)である同事件第五回公判調書の記載によると同公判期日(昭和二八年九月二一日)に証人茅根隆(茅根巡査)は「私は当時山本篤三郎君だと思つておりましたが、違つており、本当は斉藤文治という学生で」あると供述し(三九丁25問答)、山本篤三郎だと思つていた者が後に斉藤文治であるとわかつたことにつき「同人については昭和二六年の五月祭の準備委員か何かをしていることで名を知り、五月祭のとき大学で銀杏並木にいる人を同僚の佐藤巡査から山本篤三郎であると教えられたが昭和二八年のメーデーの行進の中にいる山本篤三郎についてその後同年六・七月頃本富士署で深沢巡査から茅根のいう山本篤三郎は斉藤文治であると教えられた」旨(四三八丁から四四〇丁245問答から256問答)証言したこと、(B)同事件第七回公判期日(昭和二八年一〇月二六日)で弁護人の申請にかゝる証人斉藤文治の供述により同証人は本件発生当日教室にいなかつた旨の立証がなされたこと、(C)柴巡査は同事件第一一回公判期日(昭和二九年三月二七日)で「昭和二八年一一月初め頃茅根巡査から山本篤三郎は浜里久雄というのが本当らしいと教えられた」旨(七五〇丁から七五二丁2問答から11問答)証言したこと、(D)当審第四回公判期日において茅根巡査が証人として同証人が最初その氏名を同僚に教えられて山本篤三郎であると思つていた男を斉藤文治という氏名だと知つたのは深沢巡査から聞いたと旧一審千田事件におけると同様に供述しつつ、ただそれは「電話によつて知らされた」という点では異なる供述をし、またその後その男の氏名が浜里久雄であるとするに至つた理由として浜里が学外のデモの場合か何かの際に警察官に逮捕された時の写真を誰か係の人から浜里久雄であると示されたことによるものである旨(327問答から366問答)供述したこと、(E)「浜里久雄の石島泰に宛てた葉書」(当審第九回公判期日で証拠調。記録に編綴)の記載によると、浜里久雄はいまだかつて警察官に逮捕された経験はないこと、(F)旧二審千田事件で、柴巡査はいわゆる山本のことを中島篤三郎であると述べ(第二回公判調書中の供述記載九五丁38問答および検証調書中の立会人としての指示説明記載一六六丁)、当審第五回公判期日では、山本篤三郎と中島篤三郎と言い間違えたのであると弁解していること(416問答)などの事実が認められる。以上の事実によると柴巡査が被告人千田と同じ位はつきり知つていると言い切つたいわゆる山本についてその氏名を誤認していたのみならず、弁護人側の反対尋問ないし反証と相前後して茅根、柴両巡査は相連絡していわゆる山本という人物につき二回にわたつて氏名の訂正をし、必ずしも納得が十分に行くとは言い兼ねる理由の説明をもつて自分達の供述の確実性を保持しようと努力し、結局失敗したと見るほかないことは明かである。

(二) 次に茅根、柴両巡査は教室に入つた目的、上司の指示の有無、警察手帳の記載内容等警察側に都合の悪い事項について常識上全く首肯し得ない否定的ないし消極的供述を国会でも裁判所でも証人として宣誓したうえで繰り返していることもまた弁護人らの指摘するとおりであることが認められる。

(三) その上に茅根、柴両巡査は被告人らの責任を追及するのに必要であると認めた事項については前項の場合と反対に積極的且つ肯定的な供述をできるだけ詳細にするのであるが、その内容の或部分は弁護人らの指摘するとおりに或は数回にわたる供述の前後により、或は弁護人の反対尋問により前後矛盾したり曖昧となつたりしている。すなわち柴巡査の供述について言えば、教室後部で柴巡査と被告人千田とが揉み合つている際の状況について被告人千田が「私服がいるぞ」と叫んだとき上に挙げたのは右手だと言い(旧一審千田事件二九二丁85問答)、或は左手だと言い(同事件二七九丁20問答、なお旧二審千田事件九六丁40問答、当審第五回公判期日353問答から356問答参照)、その際胃を突かれた(旧一審千田事件二七九丁20問答)とも、或はともかく腹を突かれたが拳によるのかどうかわからない(当審第三回公判調書100問答から110問答)とも言い、オーバーのボタンは被告人千田が引きちぎつた(旧一審千田事件二八一丁29問答)とも、また学生らの暴行の際何時しかとれたようにも(同事件三一一丁228問答)述べ、舞台前で警察手帳を被告人千田に見せた理由を「手帳を取られるよりも見せた方がよいと思つた」(同事件二八一丁29問答)とも或は「『職名と名前だけでも見せろ。内容は見ないから』と言うのでそれ位ならよいだろうと思つて見せた」(旧二審千田事件九八丁45問答)とも説明し、踊り場で被告人千田に手帳を取られたときの状況について、学生らによつて単に両手を抑えられた(当審第三回公判調書168問答)とも、或は腕をねじ上げられた(旧二審千田事件一四三丁61問答)とも言い、被告人千田に取り上げられたという手帳は上衣の左ポケツトに入れていた(当審第三回公判調書169問答)とも右ポケツトに入れていた(旧二審千田事件一〇一丁50問答)とも述べていること、茅根巡査の供述について言えば、教室内舞台前で被告人福井がいて「警察手帳を持つていない」という茅根巡査に対し身体検査をするなどと言つていた旨(旧一審千田事件三八四丁9問答)の供述をしながら、後になると果して福井がいたかどうかわからない、踊り場へ連行される途中暴行されたときに初めて福井を発見した(旧一審福井事件三七八丁三七九丁21問答・22問答)とも述べ、踊り場で被告人千田が警察手帳を取るのに上衣の二番目のボタンの所から手を入れた(旧二審千田事件一四三丁61問答)と不自然な内容の供述をし、手帳を取られてから被告人千田に対して手帳を返してくれと言つた時期と被告人千田が長椅子に腰掛けているのを見出した時期とを時間的に入れ替えた内容の供述をする(旧一審千田事件四三五丁四三六丁234問答、236問答と旧二審千田事件一四四丁一四六丁64問答・69問答)など矛盾しまたは瞹昧な供述をしており、また教室後部で騒ぎが発生したときに自分の席から振り向いて見たとき柴巡査と被告人千田とを認めた旨(旧二審千田事件一五〇丁88問答)供述しながら、後にこれを取り消す供述(同事件一五一丁90問答)をしているのである。

(四) 弁護人側は以上の事実を以て両巡査の供述証拠に信憑性を認めるべきではないという理由にしている。しかしながら(一)の項のいわゆる山本篤三郎という人物の氏名に関する間違いは、被告人千田に対する柴巡査の認識とは別問題である。もつともいわゆる山本という人物に対する名称を誤つていると気付いた後に茅根、柴両巡査の行つた証言の訂正と(二)および(三)の項に説明したような対照的な供述の態様とは両巡査がすべてにわたつて有りのままに真実を語る素直な証人ではなく、また供述の中に真実に合致しない部分のあることを示すものであるため、弁護人からすべての供述について虚偽を語つているという酷評を受けるのもやむを得ないし、このような両証人の態度は素朴な公平感に反するところのものである。とは言え、このことから直ちに両巡査の供述内容をすべて虚偽だと決めてしまうこともできない。何故なら本件はその発生直後大学対警察という形で国会で取り上げられる大問題となり、その警察側の重要証人として国会で喚問されて以来幾度か裁判所で証言している両巡査としてその特殊な立場を考慮した供述をすることは遺憾ながらありうることだと思われるからである。従つて警備情報収集活動、手帳の記載内容その他警察当局の責任となるような事項に関する供述、自己の最初にした供述の信憑性を高めるためにする付加的、合理的、補足的説明について両証人の供述証拠の証明力は極めて弱いと言わなくてはならないが、そうだからと言つて、それとは事柄を異にする本件公訴事実について両証人が無根の事実を捏造して被告人らに投げ掛けたと簡単に一蹴し去ることは相当でない。また前の(三)に認められるような個々の具体的状況の説明中付随的な事柄、特に或事実を述べたのちその事実が存在したことの根拠として合理的な補充説明をするため通常の場合忘れていても不思議はないような事柄を事細かに述べた部分について前後矛盾したり瞹昧になつたりすることはあつても、そのことだけによつて事件の大筋に対する両証人の供述内容を一挙に否定してしまうことも相当でないことに注意する必要がある。しかしそれにしても両証人の証言中上に指摘したような信用しかねる点のあることを顧て、他の部分の証言についても十分警戒を払いながらその信憑力を評価判断しなくてはならないこととなる。

(五) そこで、茅根、柴両巡査の被告人千田に対する認識の度合を検討する。旧一審千田事件第三回公判期日における柴巡査の供述記載、押収してある警察手帳二冊(同押号の三、五)および被告人千田の当公判廷(第一〇回公判期日)における供述(85問答)を綜合すると(すなわち右両手帳の記載内容を対比して、同一日付で且つ日曜日に東大巡視をした旨記載されている部分を、右に掲げた供述証拠と綜合すると)、本件発生に間のない日曜日である二月一七日に柴、茅根両巡査らは経済学部の小使室にいたとき、或学生が「何で来た。用がなかつたら出てくれ。」と言つたことがあり、その時に茅根巡査が柴巡査に今の学生は千田だと教え、柴巡査がこれによつて被告人千田その人と名前を知るに至つたことが認められる。また旧一審千田事件における第四回および第五回公判調書中茅根証人の供述記載、押収してある警察手帳(同押号の三)の記載によると茅根巡査は昭和二五年七月から本富士警察署の警備係を勤めており、その警察手帳の記載は具体的且つ詳細であつて、山本篤三郎、斉藤文治、浜里久雄らを面識区別する点で間違つていたとしても、当時経済学部の自治会委員長として活躍していた被告人千田に対しては十分な面識を具えていたものと認められる。以上の事実を綜合すると、茅根巡査も柴巡査も被告人千田に対し十分な面識を得ていたことを認めるに十分である。そして本件発生当日右両巡査が被告人千田と相近接して対峙し同人から判示のような暴行を受けた際他の人と被告人千田を取り違えた虞れがあると疑うに足りる事情は存在しない。もつとも

(1) 柴巡査が教室後部で被告人千田に押し止められた時の照明の度合について証人里村光治は旧一審千田事件で「教室後部は暗くて手帳をとつた人の顔もわかりませんでした。」(一二八丁49問答)という旨の供述をしているけれども、これは手帳を取つた人間の顔も見ないのでは警察官の恥だという意識から誇張して言つているものと認められる。当審検証調書の記載によれば当時教室後部にはグローヴ電灯の照明があり「薄暗くはあつても人の顔は判る」程度の明るさであつたことは旧一審千田事件で柴巡査が供述している(二九一丁79問答)とおりであると認められる。

(2) 被告人千田の当日の服装について千田被告人本人は終始一貫学生服であつたと述べており、旧一審千田事件の証人豊川洋、同中村隆次、同浜里久雄らはこれと同旨の証言をしている。これに対して同審柴証人は被告人千田の服装は記憶していないと述べ、茅根巡査は旧一審千田事件においても、当審においても、「被告人千田の当日の服装は紺か黒の背広であつた」旨の証言をしている。また右証人豊川洋、同中村隆次は被告人千田はオーバーを着ていたと述べており当時の気温、教室内の設備からすればそれは極く自然なことだと思われる。従つて当裁判所は当日の被告人千田の服装は学生服であり、その上にオーバーを着用していたものと認めるのであるが、しかし服装に関する証言というものが一般に極めて不正確なものである(本件についても例えば旧一審千田事件証人田岡初五郎に対する尋問調書中(16)、(17)問答参照)ことは広く認められていることであるうえに、学生服の上にオーバーを着用した姿を当日の混乱状況の中で見たのち、襟の形などから背広姿であるという印象を残す可能性もあるので、服装に関する供述内容を捉えて茅根巡査の被告人千田の暴行に関する証言のすべてを誤つていると言うことはできない。

(六) 弁護人らはまた、紐(同押号の二)で洋服に結びつけられた手帳(同押号の三)を取り上げられた時の状況について茅根巡査の説明は紐の長さ、弾力性などから見て納得のゆく程に詳細でないこと、この紐の茄子環には鳩目環が付いていないことを茅根巡査の証言に疑念をさしはさむ理由の一つとしている。また旧一審千田事件第九回公判調書中証人中村隆次の供述記載によると同証人は「茅根巡査らが任意に提出した警察手帳を新制の男が受け取つたのであつて、学生がポケツトに手を突込んで取つた事実はない。」旨の供述をしている。しかしながら茅根巡査の手帳を結び付けてあつた紐が、手帳とは別に昭和二七年三月一日福井駿平に対する暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事件について茅根巡査から東京地方検察庁検察官に任意提出されていること(土田義一郎作成の領置調書、黒紐一本の押収目録添付)、茅根巡査の警察手帳(同押号の三)の鳩目部分が茅根巡査の供述内容に符合する破損を示していること、旧一審千田事件の証人として柴巡査が踊り場の雰囲気を説明して「もう一人からも取つたんだからこれからも取れ」(二八二丁35問答。当審第三回公判調書165問答も同旨)と学生らに言われて手帳を奪われたと述べており、この供述はその場の状況、前後の事情に照らし極めて信憑力が強いものと認められるのであるがこのような「警察手帳を取り上げる」という雰囲気の中で、始末書の署名を最後まで渋つた茅根巡査が安々と警察手帳を自ら提出するという蓋然性は少ないと認められること、手帳が取り上げられてからの状況についてではあるけれども、踊り場における状況の茅根巡査による描写は旧一審千田事件の証人斯波義慧の供述内容と符合していることなどを綜合すると、茅根巡査の供述はその大筋において真実を述べているものと認められる。警察手帳の紐(同押号の二)に鳩目環が付いていないことは多少問題であるけれども、それ故に茅根巡査の供述を虚構だという根拠にするわけにはゆかない。

(七) 被告人千田は当審の公判廷においてその審理の最終段階(第一〇回公判期日)に至つてようやく自己の行動についてやや詳細な陳述をした。その内容には、そのうち特に舞台前で柴巡査から手帳を受取つた時の心境については、それだけ取り離して見ると如何にももつともに見えるものを含んでいる。けれども証人豊川洋の旧一審千田事件における供述記載に(29)問答で「会場の後ろの方で暴れていたというのは柴巡査ですか」という問に「そうだと思います」と答え、(30)問答で「その中に千田君の姿はなかつたですか」という問に「前の方に円をつくつた時で写真を撮つている時私の左側の真中の辺を舞台に向つて行く所を見ております。」と答えている部分があり、殊に被告人千田が舞台に行くところを見た点についてはその(42)問答でも同旨の供述を繰り返しており、同証人が本件発生後比較的早い時期に被告人側の証人としてこのような事実を確言していることには十分注意を払う必要がある。そうだとすると同証人の供述内容に照らし、被告人千田は旧一審千田事件記録検証調書第二図(法文経二五番教室見取図)でいうと(この判決の別紙図面も同一)、4の通路を歩いて演壇の方に行つたことになる。しかるに被告人千田が当審での最終段階で供述した内容、すなわち同見取図(と)と又は(ち)の列に坐つていて騒ぎが演壇の方に進行しているので席を立つて前の方に行つたという供述からすると通常ならば5の通路を通つて行きそうなもので豊川証人の座席((へ)列後方)からその証言のような姿は見かけられる筈はないことになるのであるが、これは前示豊川証人の供述記載に反するのであつて、結局千田被告人本人の供述もすべてそのままに信用するわけにはゆかないことが明らかとなつてくる。そうして両巡査の証言は旧一審の審理が開始されて以来弁護人らの反証と綿密な反対尋問により幾つもの欠陥を示したのであるが、それらの欠陥も一貫して繰り返され来つた両巡査の供述証拠の核心的部分をついに覆がえすまでには至らず、被告人千田の説明も当裁判所が第二証拠の標目の項に掲げた諸証拠を綜合して得た心証を動かすには足りないのである。

2  (被告人福井について)

(一) 被告人福井も同千田と時を同じくして当審の最終段階において自己の行動についてやや詳細に陳述し、事件当日一名の巡査が舞台前から踊り場へと連行される後ろをついて行つたが、それは里村巡査であつたと述べ、弁護人の主張も結局これと内容を同じくするものである。

(二) そこで弁護人の言うところを二つに分けて検討する。

(1) 被告人福井が教室に入場したのは計画的ではなく帰省の途次偶然に入場したものであるし、当日は被告人福井に対する無期停学の措置が解かれた日の翌日で被告人福井としても慎重になつていた時のことであるから、判示のような暴行に出る筈がない、まして被告人福井が逮捕された時の状況は事件発生の翌日福井自身警察官の前に出て行き学内立入の非を問おうとしたことによるもので、これは被告人福井がその前日暴行をしていない何よりの証拠であると言うのである。しかし右のうち後者について言うと、同被告人の当公判廷における説明から窺うも、判示程度の暴行について被告人の主観からすると当時大学に不法に潜入した警官に対しこれを咎めて抗議しようという気持こそあれ、暴行の罪悪感などは持ち合わせていなかつたと解する余地が多分にあり、またその余の点は多数の学生が取り囲んだ雰囲気中で発展して行つたと認められる本件の暴行についてその主張するような理由だけで被告人福井の判示程度の暴行の存在は到底あり得ないとする理由とはなし得ない。

(2) 次に里村巡査の証言内容と対比しながら被告人福井の前述の弁解が真実であると主張する点について言うと、被告人福井が茅根巡査の後ろにいたという当裁判所の心証は、茅根巡査の供述に基き同人のすぐ後ろに被告人福井のいたことの蓋然性が極めて高いと認めたことによるのであつて、この心証は勿論弁護人らが部分的に非難する里村巡査の旧一審千田事件および当審での供述によつて補強されてはいるが、その補強なしには成立し得ないところのものではない。そして旧一審千田事件の証人中村隆次の供述記載によれば舞台前から踊り場へ連れて行かれた通路は三巡査共同じで、相近接して次々と連れて行かれたものであることが認められる。このような状況の下にあつては被告人福井が里村巡査の手帳が取り上げられる状況を教室後部に到つて目撃もし、その前に通路を茅根巡査の後をついて行きもしたことはいずれも十分にありうることであつて、その間に何等の矛盾もあり得ないのである。

3  (その他)

以上弁護人ら主張の線に沿つて検討したのであるが、右のほか当裁判所は本件事態の推移、各証人の立場、各証言の異同等種々の側面から茅根、柴両証人を含む本件各証人の証言内容を検討した結果、両被告人の判示行為に関する柴、茅根両巡査の証言は大綱において信用せざるを得ないとの結論に達し判示の認定となつたものである。そして旧一審千田事件判決以来問題とされたことであるが、踊り場に斯波厚生部長が来たとき茅根巡査らは被告人千田に手帳を取られた旨を告げていないとの点については、それが被告人千田の踊り場における暴行に関する茅根巡査の証言の信憑力を左右する程決定的なものであるとは認めなかつたのである。

また被告人らが判示暴行をするに当つて「数人と共同した」との点は、被告人ら自身で茅根、柴各巡査に加えた暴行が教室のその場に居合わせた学生中の一部の者と共に「学内に不法に侵入した警官を捕えて糺問しよう。このためには多少実力を加えることも止むを得ない」との共通の意思の下に相協力して発展的に逐次巡査らに加えた一連の暴行の一部分であることは前記第三、三の項に認定判示した事実に照し合わせて明かであると言わなくてはならない。従つて被告人らはそれぞれのなした暴行の場に居合わせて実行に当つた他の学生ら数人と共同して判示暴行を行つたとの認定評価を受けざるを得ないのである。但し本件訴因中被告人らが「多衆の威力を示して」判示暴行をしたとの点については、そのように認定評価すべき証拠は十分でない。

二、被告人両名の行為は警官の違法行為を排除するために行われたもので可罰性がないとの主張について。

1  (本件審理の経過)

本件の審理は次のような経過を辿つている。すなわち被告人千田に対しては昭和二七年七月二八日東京地方裁判所に起訴され、同二九年五月一一日同裁判所で無罪の判決が言い渡された。その理由の要旨は、被告人は柴巡査が教室内から逃げ去ろうとするに際し同巡査の腕を掴み他の学生らと共に逮捕し、同巡査が舞台前に連行されて学生らに取り囲まれた際同巡査が警察手帳の呈示を拒むので、そのオーバーの襟に手を掛けて引き、強く手帳の呈示を求めたという事実を認めたうえ、警官が本件ポポロ演劇集会に立ち入つたのは学問の自由、大学の自治を侵害する違法な行為であつたとし、被告人の暴行は警官の違法行為を排除するため相当な行為と認められるので違法性が阻却される、というものであつた。検察官の控訴に対し東京高等裁判所もほぼ同様の理由で一審判決を維持した。被告人福井に対しては昭和二七年三月一〇日東京地方裁判所に起訴され、被告人福井が保釈中裁判所に無断で国外に渡航したため審理が遅れたが、同三三年一二月三日同裁判所で無罪の言渡があつた。その理由の要旨は、被告人福井は教室内通路で茅根巡査の面部に唾を一回吐き掛けたという事実を認めたうえ、被告人千田に対する無罪判決と同旨の理由に基いて行為の違法性阻却を認めたものである。検察官はこの判決に対して控訴した。しかし昭和三八年五月二二日最高裁判所は次に述べる理由で被告人千田に対する原判決および一審判決を破棄してこれを当裁判所に差し戻し、次いで同年一一月一八日東京高等裁判所は被告人福井に対する原判決を右最高裁判所判決と全く同趣旨の理由で破棄し、これを当裁判所に差し戻した。

2  (本件につき最高裁判所が破棄判決で示した判断)

本件に関する前記最高裁判所の判決は

(一) 憲法第二三条の解釈として『大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである』と大学の学生が享有する特別の学問の自由と自治の性質についての見解を示したうえ、『大学における学生の集会も右の範囲において自由と自治を認められるものであつて、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによつて特別な自由と自治を享有するものではない』から

(1) 『学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない』

(2) 『またその集会が学生のみのものでなく、とくに一般の公衆の入場を許す場合には、むしろ公開の集会と見なさるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。』

という見解を明かにした。そして本件事案につき

(二)(1) 『本件の東大劇団ポポロ演劇発表会は、原審の認定するところによれば、(イ)いわゆる反植民地闘争デーの一環として行なわれ、(ロ)演劇の内容もいわゆる松川事件に取材し、(ハ)開演に先立つて右事件の資金カンパが行なわれ、(ニ)さらにいわゆる渋谷事件の報告もなされた。これらはすべて実社会の政治的社会的活動に当る行為にほかならないのであつて本件集会はそれによつて、もはや真に学問的な研究と発表のためのものでなくなるといわなければならない。』

(2) 『またひとしく原審の認定するところによれば、(ホ)右発表会の会場には東京大学の学生および教職員以外の外来者が入場券を買つて入場していたのであつて、(ヘ)本件警察官も入場券を買つて自由に入場したのである。これによつて見れば一般の公衆が自由に入場券を買つて入場することを許されたものと判断されるのであつて、本件集会は決して特定の学生のみの集会とは言えず、むしろ公開の集会と見なさるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。』

(3) 『そうしてみれば本件集会は真に学問的な研究と発表のためのものではなく、実社会の政治的社会的活動でありかつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治とはこれを享有しないといわなければならない。したがつて本件集会に警察官が立入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない。』

という判断を示した。

従つて当裁判所は本件審理の冒頭に当つて最高裁判所判決の拘束力について訴訟指揮として示した見解のとおり「前記(イ)から(ニ)の事実が認められる限り本件集会は政治的社会的活動であつて、真に学問的な研究と発表のためのものではないと言うべく(ホ)、(ヘ)の事実が認められる限りは本件集会は非公開性を欠くものというべく、もし(イ)から(ヘ)の事実が認められるときは本件集会に対する警察官の立入行為を大学の学問の自由と自治を犯すものとして違法とすることはできない」という点について上級審の判断に拘束されるのである。

3  (弁護人らの主張の要旨)

弁護人らは右破棄判決が判断の前提とした(イ)から(ヘ)の事実の存在を((ロ)の事実を除き)否定し警察官の本件立入行為が学問の自由と自治を犯すものではないという上級審の判断は前提事実を欠くからその拘束力を失うと主張したうえ、本件警察官の教室立入行為は警察権力によつて東京大学に対し継続的系統的に行われた思想調査、集会の査察等の人権侵害行為の一部分であるうえに、本件立入行為だけ取り上げて見ても憲法第二一条に定める集会の自由、同法第二三条に定める学問の自由を侵害する違法な行為である、被告人らはこの違法行為を排除しようとしたものでその行為に可罰性はないと主張する。そして可罰性のない理由としていわゆる超法規的違法阻却事由の存在、正当防衛もしくは緊急避難の認めらるべき要件の存在および期待可能性不存在を挙げている。

4  (当裁判所の判断)

以上のような本件審理の経過、破棄判決の拘束力および弁護人らの主張内容に鑑み、破棄判決の前提とした前記(イ)から(ヘ)の事実に関する当裁判所の認定事実を以下(一)から(六)でやや詳細に示したうえ、弁護人らの主張に対する判断を(七)で示すことにする。

(一) 〔東大劇団ポポロの性格〕

当審証人斯波義慧の供述記載、旧一審千田事件証人尾高朝雄の供述記載によると、東京大学では学生らが課外活動を行うため団体を組織する場合には所定の方式の届出をさせ、学生の本分や学内秩序をみだる虞れのない限り、これを学内公認の団体として種々の便宜を供与する取扱をしていたもので、劇団ポポロは右の取扱に従つて昭和二三・四年頃から大学に公認された演劇団体であることが認められる。劇団ポポロの目的、構成、運営については、当審証人吉沢四郎、同城倉宗一郎の証言を綜合すると次の事実を認めることができる。すなわち劇団ポポロの目的は演劇の理論、歴史、演出法などを広く研究するところにあり、劇団独自の演劇理論という程のものはなかつたこと、構成員は全学の学生職員のうち有志の者からなつており、昭和二七年二月当時二〇数名であつたこと、当時大学へ届出た同劇団の責任者としては城倉宗一郎の名前が掲記されており、同劇団の運営は劇団構成員全員による総会で審議決定するのが建前となつていたけれども、実力者が発議して居合わせた者の同意を得て決めてゆくという方法であつて、昭和二七年二月当時の実力者と言つてよい者は文学部学生佐崎昭二と同吉沢(旧姓堀井)四郎とであつたこと、劇団の公演は毎年五月祭の時期にその運営委員から予算の配布を受けて上演する例となつていたほかは臨時に年一度か二度行い、その費用はその都度の入場料で賄い、不足分は構成員の有志が補填するという状態であつたこと、昭和二六年から数え上げると、同年五月、同年一二月、同二七年二月(本件集会)同年五月というように公演していることが認められる。

(二) 〔劇団ポポロの本件上演の決定と大学の許可―本件集会が学内集会であること。〕

(1) 当審証人吉沢四郎の証言、押収の入場券三枚(同押号の六から八)によると次の事実を認めることができる。劇団ポポロの実力者である佐崎昭二および吉沢四郎は昭和二六年暮頃中労委会館で創作劇場という劇団が「何時の日にか」(藤田晋助作)という松川事件に取材した演劇を上演しているのを観劇して感銘を受けたということである。そうして吉沢と佐崎は劇団ポポロの構成員に諮り、台本、舞台装置などを創作劇場から借用するなど同劇場の菊池史郎(「何時の日にか」という演劇と同時に中労委会館でも、本件集会でも上演された「あさやけの詩(うた)」の作・構成者)、藤田晋助らの援助を得てこれらの劇を劇団ポポロの公演として急遽取り上げることに決め、東京大学に対し所定の方式に則つて教室借用願を提出した。

(2) 教室借用願一通、教室使用料免除願一通およびこの研究会は人事院規則(人規十四―七)にいう政治的目的を有するものでないことを保証する旨の文書(以下保証書という。)一通の各写(同押号の九から一一)旧一審千田事件証人斯波義慧、同尾高朝雄の各供述記載および当審証人斯波義慧の供述記載(被告人千田については供述)を綜合すると次の事実を認めることができる。東京大学では学生らが学内教室を利用して集会する場合には教室の使用について許可制をとり、一定方式の下に教室借用願という形による許可申請をさせ、なお同申請書には国の施設を利用することでもあり人事院規則十四―七「政治的行為」(特に同規則6・一二参照)にいう政治的目的を有しないことを保証する文書を添付させていたこと、右許可申請に対する許否は使用教室を所管する学部長に委任していたこと、この場合政治的意図がないと認められる集会に限り許可することになつていたこと、そうして劇団ポポロの本件教室借用願は右の正規の方式に則り昭和二七年二月一一日許可申請がなされ、保証書も添付されていたこと、同年二月二〇日法文経二五番教室を所管する法学部長宮沢俊義が右申請を許可していることが認められる。

また右申請に際して提出された教室借用願には(イ)主催者名―東大劇団ポポロ(ロ)会合の名称及び目的―東大劇団ポポロ研究発表会(ハ)会合の次第―演劇及挨拶〔「何時の日にか」一幕二場・「あさやけの詩(うた)」一幕・挨拶作者菊池史郎、この劇の素材について徳島康史(東大学生新聞)〕と記載されているが、前掲証人尾高朝雄の供述記載によると一般に右のような集会は演劇の取材が犯罪とか政治的問題を含むものから採られていても、それを演劇という角度から研究的に上演するものである限り政治的目的を持つものとは考えないで事務的に許可するのが東京大学の例であり、本件もその例に漏れなかつたこと、各学部の教授を委員として構成されている学生委員会は集会の性格が問題となる場合にはその許否について検討することになつていたが、本件集会は右委員会で検討する必要性も認められないまま殆ど事務的に許可されたものであることが認められる。従つて本件集会は、その内容、性格についての評価は別として、ともかくも学内集会であつたとしなければならない。

(三) 〔本件上演と反植民地闘争デーとの関係〕

(1) 劇団ポポロの本件演劇上演の動機および上演の日がいわゆる反植民地闘争デーの前日である二月二〇日とされたことについて、前掲吉沢証人は「現代に生きている庶民の心理を証人に喚問された老鉄道員の悩みを通じて見事に克明に描いていることに興味を持ち最後に新しい芝居をやつたということを残して卒業しようというつもりであつた。自分としては松川事件が単なる列車転覆事件ではないという点に興味はあつたが上演目的としては松川事件そのものが関心の中心ではなかつた」旨を述べ、更に「卒業試験が二月二三日頃に開始されるので、その前で稽古期間の必要性も考えに入れて、法学部の教室の空いている日を任意選んだもので、上演の日と反植民地デーとは何の関係もない」旨説明し、前掲城倉証人もこれと同趣旨の供述をしている。これらの説明には昭和二六年一二月に公演したばかりのポポロ劇団が卒業試験前に更に急遽公演をする程の必要性について必ずしも納得できないところがあるけれども、この点を留保すればなお一応の説明であると言えよう。しかし本件ポポロ演劇公演の実施決定後の問題として、時恰も反植民地デーに近接しているためそれに関係させた意味を本件演劇集会に付与していたか否かはまた別の問題として可能である。

(2) 前記昭和二七年二月一四日付東京大学学生新聞(同押号の一)によると、同紙一面に『再軍備反対署名始る、反植民地デーへ、「ポポロ」発表会など』という見出しの下に、国際学連から送られて来た反植民地デーのポスターを全学連書記局から借用して複写し、その周囲に『都下学生の「再軍備反対署名運動」は二月初旬を期して一斉に開始された。……二月二一日の反植民地デーを前にして都内各学校で種々の催物の準備が進んでいる。すでに早大では先ごろの冬期休暇に行つた都下小河内ダム建築地帯の調査報告会を九日行つたほか、東大では廿日廿五番教室で劇団「ポポロ」公演が行われ菊池史郎氏がはじめて松川事件を取り上げた戯曲「松川事件」を上演する。また今月中旬には……。反植民地闘争デーとは一九四六年インド学生がインド海軍の反英反植民地鋒起を支持する歴史的なデモ、更に四七年エジプト学生が反英反植民地デモを行つた記念日である。』という記事があつて、あたかも都下の学生が反植民地デーを記念し、その日を中心として反植民地闘争デーの趣旨上有意義な行事を次々と行つており、劇団ポポロの公演もこのような行事の一つであるという趣旨に読まれる。しかるに当時の劇団ポポロの責任者であつた証人城倉宗一郎の証言、同劇団の実力者で本件上演の中心となつた証人吉沢四郎の証言、当時の東京大学学生新聞編輯長であつた証人西田勝の証言によると、同劇団関係者側から学生新聞の右の記事に対して抗議を申し込んだ形跡が認められない。しかも教室借用願(前掲)、当審証人西田勝の証言によつて認められるのであるが、東京大学学生新聞の記者徳島康史にポポロ演劇集会で上演戯曲の素材を説明させることについて交渉するなど、劇団ポポロと学生新聞編輯者らとは当時密接な関係にあつたのである。そうすると学生新聞の担当記者に情報を提供した筈の者を含む劇団ポポロの構成員ら(演劇の作者として菊池史郎の氏名を掲げているのは同劇団が大学に提出した教室借用願でも右学生新聞記事と同一である。)はポポロ演劇公演が反植民地闘争デーの趣旨上有意義であると自らも評価し、且つ第三者にそのように評価されることを期待していたものと認めざるを得ない。

(3) この点について証人吉沢四郎は「右のような新聞記事に当時気がついておれば文句を言うところである。」旨述べているけれども同証人の本件公演当時の立場および当公判廷における供述の内容態度に照らしそのままには信用できないし、また当時学生新聞の一面記事編輯担当者であつた証人森本治樹が、右の新聞記事の見出しも内容も事項ごとに別個独立のもので相互に全く関連しないものを単に一か所に並べただけであり、そのように読みとるべきであると言うのはおよそ文章の通常の例に反するこじつけも甚しい説明であつて一顧の価値もないと言うべきである。

(4) 前記(2)に認定したところから更に一歩進めて、本件集会が反植民地闘争デーの一環として行われたものであるということを認めるためには「反植民地闘争デーを記念して反植民地闘争上有意義な行事が幾つか行われることになつておりそれらの行事の一つとして本件集会が行われたものである」という事実が認められなくてはならないが、この事実の認定に供しうる証拠としては東京大学学生新聞の右の記事の記載しか存在しない。しかしこの記事に対して新聞一般の持つ或程度の信憑性は認められるとしても同時に新聞一般の持つ不正確性を考慮せざるを得ない上に、特に右の記事は記事の作成者ないし編輯者がそこに並べ上げたすべての行事を自らの主観で関連づけて解釈している虞れもないではない。従つて右の記事によつて直ちにそのような事実を認めることは甚だ危険である。

以上のように検討した結果、結局本件集会が前記のような意味で反植民地闘争デーの一環として行われたということはいまだ証明が十分でないと言わなくてはならない。

(四) 〔本件集会で上演された戯曲とその説明の内容〕

(1) さて、戯曲「何時の日にか」が松川事件に取材したものであることは、その台本(同押号の一二)、当審証人吉沢四郎の証言によつて明白である。その文芸作品としての価値は見る人により様々であろうが、いずれにせよ右の戯曲は単なる煽動文書ではなく、芸術的価値の創造を志向した作品であることが認められる。しかしこの戯曲の上演に際し前記教室借用願に記載のとおり徳島康史(以下徳島記者という。)が松川事件の説明を行つたのであるが、その内容は旧一審千田事件証人茅根隆の供述記載および同人の当審における供述(被告人福井に対しては供述記載)によると「松川事件というのは被告人の刑期を総計すると九〇何年にもなる苛酷なもので、被告人某は神経痛が悪化して事件に参加できない筈なのに被告人として起訴されている。云々」というもので、松川事件が官憲の捏造による不当な弾圧であるかも知れないという印象を聴衆に与える説明であつたことが認められる。

(2) この点について右の説明を行つた本人である徳島記者は当公判廷における証人として「当日の説明は概ね学生新聞に『東北紀行』と題して自ら執筆し、三回に分けて掲載されている記事と同一の立場で説明した筈で、事件について白黒いずれかに偏する態度はとらなかつた」旨供述し、更に「新聞に掲載された『東北紀行』は、第三回目に掲載された分が原稿より短縮されていて、全体として真意に反している。」旨述べている。

東京大学学生新聞掲載の『東北紀行』(1)(2)および完(写を提出して記録に編綴)を見ると、第一回目の掲載部分は事件の発生、検挙の経過、赤間自白、判決などについて概略の説明をし、更に弁護団の構成、救援活動などについて記述したもの、第二回目の分は事件当時の社会状勢を公務員法改正、企業合理化による組合運動の圧迫とこれに対抗する労働攻勢という側面から描写したのち仙台高等裁判所における公判の状況を記述したものであつて、この種の記事としては比較的冷静に述べられているけれども、第三回目(完)に入り、事件をめぐる人々の動き、すなわち被告の家族や女学生らの救援活動を描写した後事件の行方について「真実を訴えることによつて無罪の判決を得るのであろう」とか「金網の向うからの被告達の声が届いた時に真実ははつきりするであろう」とか述べるに至つて、事件に対する徳島記者の主観はかなり強く表現されるに至つている。この記事は本来二四日、二五日、二六日の三日間の現地視察報告として書かれたものであることは第一回目の記事の冒頭記載部分によつて明かであるが、右の第一回目の記事全部と第二回目の記事の大部分とは二三日の日付で序論的に書かれたものであることが認められ、第二回目の終りの部分での公判の状況の記述から二四日付となり、第三回目は第一回、第二回の相当長い文章に比較して極めて短く、しかもいきなり二六日の日付となつていることが認められる。また当時の一面記事編集担当者であつた当審証人森本治樹は「徳島記者の原稿を圧縮はしたが、そうすることによつて原稿の趣旨を改変したことはない。」旨供述しており、また徳島記者自身の当公判廷の証言も右の編輯結果について「全体としてみんな圧力を受けて恐れていたということが強調され過ぎている。」旨述べる外はどの部分が自らの意思に反するのか明確に指摘できないのであるし、右森本・徳島両証人の供述によつても徳島記者が第三回目の記事について学生新聞に抗議を申し込んだ形跡が認められない。従つて以上のような内容の記事『東北紀行』および右両証人の供述によると、結局徳島記者の記事は主観的には公平な立場に立つことを意図したのかも知れないが、客観的には松川事件の被告人らの無罪を訴える内容の記事であり、第一回目、第二回目の記事が割合冷静なのは序論として事実の経過を述べているからで、第三回目の記事が主観的なのは視察結果としての意見を交えた本論部分だからであること、第三回目の記事は著しく原稿を圧縮したものであるが結局徳島記者の意見と異るものではないこと、同記者も松川事件の被告人らが本来無罪であろうと考えていたことなどが認められる。従つて前記(四)の(1)で茅根巡査の証言に基いて認定した趣旨のような説明をする筈がないという徳島記者の証言にもかかわらず、同人の松川事件に関する説明内容は聴衆に松川事件が官憲の捏造に基くものであるとの印象を与えるものであつたことを認めざるを得ない。

(3) そして右徳島記者の主観が明確に表現されている第三回目の『東北紀行』(完)は二月一四日の東京大学学生新聞に掲載されているのに対し劇団ポポロの教室借用願は既に二月一一日に説明者として徳島康史の氏名を記載して許可申請していること、当審証人西田勝が「劇団ポポロから『今度松川事件を材料にした演劇をやるから、その素材を説明する人をよこして欲しい。たまたま学生新聞が「東北紀行」という記事を載せているからその人に来てもらつてその材料について公正な立場から喋つてもらえないか』と頼まれ徳島記者を説明に行かせた」旨述べていることに徴すると、劇団ポポロとしては単に上演戯曲の素材について客観的な説明をさせる目的で徳島記者に依頼したようにも見える。しかし何を公正であり客観的であると考えていたかは問題である。劇団ポポロの実力者であり本件集会の発起人でもある当審証人吉沢四郎の供述によると同人は「……確か二六年の……暮だつたと思います。正月ではなかつたと思うんです。中労委会館で創作劇場という劇団で『何時の日にか』というのと『あさやけの詩(うた)』というのをやつておつたのを私見にゆきました。確か佐崎も一緒に見に行つていたと思います。でその時私が感じたことは、取材は松川事件のことです。松川事件というのは私は記事でそういう転覆事件があつたことは知つていたんですけれども、それ以上の特別の関心もなくて過ごして来たんです。ちようどその芝居がそれを材料にしていたということは一つの興味の発端でありました。……」(39問答)「……私は単純な列車転覆事件だと、何人か死んだんだと、で見過していたわけですけれども、そういう風に言い切つちやうということで真理が掴めるかどうかということには疑問がないことはないんだなということですね……」(46問答)と述べているのであつて、同人は戯曲「何時の日にか」を観劇して、松川事件は単なる刑事々件としては見過ごせないものであると感ずるに至つていたものであることが認められる。そうして急いでこれを劇団ポポロの公演として取り上げたことは前に認定したとおりである。その戯曲「何時の日にか」の筋書は要するに列車転覆事件の被告人を有罪にしようとする人達によつて虚偽の証言をすることを期待されていた証人が結局真実を述べるという内容のものであることはその台本(前掲)によつて明かである。また東京大学学生新聞の『東北紀行』(1)という第一回目の記事にはその冒頭に「現地では、特に国民救援会、東北大学生新聞、明善寮、福島大、福島高新聞部、福島女子高社会グループ、被告家族の諸氏のお世話になつた」と記載されているところを見ると徳島記者のニユース・ソースが主として同事件の被告人側のものであることは容易に推定されるところである。以上の事実から考えると、劇団ポポロとしては徳島記者の事件説明が概ね「東北紀行」三回目の記事程度の内容となることは十分予想しそれを期待し且つそれを公正であると考えて徳島記者に説明を依頼したものであり、二月一四日付の新聞発行後は徳島記者の説明が「東北紀行」(完)の部分に記載された程度のものであることを知つた上で本件集会において松川事件の説明をさせたものと認められる。

(五) 〔本件集会会場の模様〕

(1) 旧一審千田事件証人中村隆次、同里村光治、同茅根隆、の各供述記載、当審証人阿利莫二の供述、教室使用願(前掲)入場券三枚(前掲)を綜合すると次の事実を認めることができる。

演劇の開始は午後五時半に予定されていたが、舞台装置などに時間を要し予定通りに開催できないうち、主催者である劇団ポポロが予定している徳島記者の説明前に先ず一人の男がマイクも使用しないで会場の観客に対し「沖繩では基地建設のために民衆に重労働が課されている、沖繩にいては内地の民主団体の情報が入らないから情報を提供して欲しい」旨演説した。次いで徳島記者によつて前述のような印象を与える松川事件の説明があり、その後主催者の了解を得ないで学生の一人がいわゆる渋谷事件について渋谷駅頭で再軍備反対署名運動をしようとする東大教養学部生徒とこれを阻止しようとする警官隊との衝突の状況を報告し、警察官の横暴を訴えた後に劇が開演されたが、右の徳島記者の説明の前後に行われた呼び掛けないし報告に対し主催者側からなんら制止ないし抗議が行われなかつたことが認められる。

(2) 茅根証人の前記供述記載および当審公判廷での供述(被告人福井に対しては供述記載)によると徳島記者は「松川事件の被告人らの救援の資金として三百万円必要であるが、今迄のところ百万円しか集つていない。本件集会は右資金カンパの趣旨で行われるものである」旨の説明をなし、劇の終了直後女の人が学生帽を左手に舞台に現われ「創作劇場は発足して間もない云々」と挨拶を始めたところで「私服だ」という声があがつた旨の供述をしている。また旧一審千田事件の証人菊池博文の供述記載には「説明の際資金カンパの話はなかつたか」という質問に対して「その話はありました」との答がある。しかし徳島記者の証言によれば資金カンパに関する説明はしたが、その内容は「東北紀行」の記事に掲載されている程度のものであるというのであり、その「東北紀行」(1)の記事(前掲)には「救助活動は公正裁判要求署名、無罪釈放署名が並行して進められカンパも百万程度集まつているようだ。しかし署名はカンパの割に集まらずカンパにしても「国際的圧力」と騒がれた中国からの三百万が中心となつているようだ云々」という記載があることから考えて、同人は右の記事のような内容の話をしたものと認められる。そして前掲茅根証人の供述記載、阿利証人の供述によると、当日教室内のスピーカーは調子が悪いものであつたことが認められる。従つて茅根証人の「本件集会は資金カンパの趣旨で行われるものであると徳島記者が説明した」旨の証言は実は徳島記者がカンパについて語つた国内のカンパ百万円と中国からのカンパ三百万円というカンパの数字にヒントを得、前に(四)(1)の項で認定した調子の徳島記者の説明内容に刺激されて自己の想像力を働かせて再構成した結果であると見てよい可能性が存在する。前掲菊池証人の供述記載もこのことと矛盾しない。また創作劇場の女性と思われる人が手にしていた学生帽が、仮りにカンパ用であつたとしても何のためのカンパか、或は創作劇場のためのカンパであつたのかその点必ずしも明確ではない。また現実に松川事件の救援資金が本件集会で集められたとの形跡に至つては証拠上全く明かでない。従つて本件集会において松川事件の救援資金カンパの勧誘や実行がなされたものと認定するには証拠が不十分だと言うほかはない。

(六) 〔本件集会の公開性の存否、程度〕

旧一審千田事件証人茅根隆、同里村光治、同柴義輝の各供述記載、前掲の入場券三枚を綜合すると、本件集会には東京大学の学生職員以外の者が相当数入場券を買つて入場していたことが認められる。もつとも当審証人城倉宗一郎、同吉沢四郎の供述によれば、その入場券は学内団体としての行事の実費弁償程度を目的としたもので、大部分は東京大学法文経三一番教室の地下にあるプレイガイドを通じて販売し、その余を当日売として本件教室前の路上で販売したこと、販売の対象は殆どが東京大学の学生職員であろうと予期していたことが認められ、特に広く学外に宣伝販売したものでないことは明かである。しかし旧一審千田事件の証人尾高朝雄、同大場和夫、同藤原貢、同竹上るり子、同倉富富子の供述記載を綜合すると、当時学内で催される演劇の類については学内の学生職員を入場者とすることを建前としながら、便宜、部外者が入場券を購入して入場することを黙認しているのが常態であつたと認められる。そして実際問題としても学内の職員もしくは家族と学外の一般入場者とを外見だけで厳密に区別することは主催者たる学生団体にとつても困難なことは常識上明白である。そして本件ポポロの公演においても主催者が特に区別のため学生証の呈示を求めるなどの方策を講じた形跡はないのであるから一般の公衆がその当時の通例に漏れず入場していたものであり、劇団ポポロとしてもそのような事態を拒む態度をとつていなかつたと認められる。そして前に認定したとおり茅根・柴・里村・古田らの四巡査もまた一般の学外の者と同様に入場券を買つて教室に入場したのである。しかし既に認定したように本件集会の主催者は学内集会として企画し所定の手続を経て大学当局から許可を得ていたものである。そして劇団ポポロの本件公演主催者は、入場者が私服警官で教室内の集会状況を偵察する目的であることを知つたならば、それこそ学内集会であるからとしてそういう者に入場券を売らなかつたであろうことは殆ど自明の事柄に属するし、茅根ら警察官の方でもその点は十分に心得ていたことは当初に認定したように私服で且つ隠密に潜入し、発見されて逃走したこと自体からも認めることができる。すなわち以上のとおり公開性の存否ないし程度という点から本件集会の実質を検討すると、本件集会は結局学内集会として企画され且つ大学当局の許可を得たものである関係上学生職員のみに限ることを建前とする学内集会でありながら一般公衆が入場券を求めて入場することを黙認しているものではあつたが、さりとてそれ以上に、学内集会に名を借りて一般人の入場を促しその実は巷間の演劇会と差異がない程に公開性を帯びていたものとは認められない、いわば半公開的集会であり、従つてまた警察官の査察に曝することをも意に介しないとするものではなかつたとしなければならない。

(七) 〔以上の認定事実に基く判断〕

(1) 本件警察官が本件集会に立ち入つたことによつて憲法第二三条に保障する学問の自由ないしこれに基く大学の自治が犯されたかどうかについて当裁判所は次のように判断する。

すなわち破棄判決が推論の前提とした前記(イ)から(ヘ)の事実について当審でなされた審理の結果は、それら全部がそのままに存在するものと認められないことは既に述べたとおりで、これを要約すると

「(イ) 劇団ポポロの本件演劇発表会は学内公認団体の研究発表会として上演する意図に併わせて松川事件における被告人らの無罪を観衆に印象づけることを意図していたもので、そのことは官憲ないし国家権力の不当な行動に対する民衆の抵抗を支持するものとしていわゆる反植民地闘争デーの趣旨上有意義なものであることを意識して行われたことが認められる。しかしそれ以上に反植民地闘争デーを記念する幾つかの行事の一つとして行われたものであるということまでも認めることはできない。

(ロ) 演劇内容が松川事件に取材し且つその被告人らが無罪であることを志向するものであり、且つ開演に先立つてなされた徳島康史の演劇素材の説明もそれと同方向のものであることが認められる。

(ハ) 開演に先立つて松川事件の資金カンパが行われたことを認めることはできない。

(ニ) 開演に先立ち徳島康史の右説明を挾んでその前後にいわゆる渋谷事件の報告と沖繩の状況に関する報告とが主催者の意図にかかわりなく行われたが、これらに対し主催者側からなんら異議や制止がなされなかつた。

(ホ) 会場には東京大学の学生職員以外の者で入場券を買つて入場していたもののあつたことが認められる。

(ヘ) 茅根、柴、里村ら警察官も入場券を買つて入場したのである。もとより本件集会の主催者は学内集会として企画し大学当局よりその許可を受けたものであつて、観客は学生、職員を主とし、それ以外の外来者の入場も黙認はするがしかし一般公衆に公然と入場を促す措置までとつたものとは認められない半公開的なもので警官の入場視察に曝すことを意に介しないとする意思のなかつたものである。本件警察官の入場は入場券を求め一般外来者に紛れて怪しまれることなく入場したという意味では自由に入場したものである」

ということである。しかしながら右の(イ)、(ロ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)の事実の存在によれば本件集会は大学当局から学内集会としての許可を得たものであつても、その集会で行われた内容が前認定のような演劇と説明であり実社会の政治的社会的活動にわたる事項を含むもので専ら学問的な研究と発表のためのものでない点で、本件における最高裁判所判決の見解の示すとおり、大学における学問の自由を享受し得ないものと言わなくてはならない。従つて本件ポポロ公演の当日、判示警官の教室立入が学問の自由および大学の自治を侵害するものであることを前提とする弁護人の主張は最早すべて採用するに由ないものとなる。

なお右の点について、弁護人は政治的という意味は人事院規則十四―七にいう意味に限るべきだと言うけれども、この規則は公務員の活動について定めているもので官公私立を問わない大学の自治と直接には関係がない。大学の自治との関係で政治的社会的活動に当る行為というのは、本件破棄判決の趣旨に照して考えると、教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治ということから離れて現存の国家社会に対し影響を及ぼすことを意図した活動に当る行為をいうと解すべきだと考える。

(2) 次に憲法第二一条の保障する集会の自由との関係について判断する。集会の自由は多数人が共同の目的で一定の場所に自由に参集し、或はそれとともに集会において参集者が思想や意見の発表ないし交換を自由に行うことを行政権力によつて制限されないことを意味する。従つて無制限に公開された集会に立ち入る場合もしくは憲法の許容する法律に基く強制力の行使として集会に立ち入る場合は別として、その他の場合、特に入場範囲の制限された平穏な屋内集会、殊に本件のような大学構内、しかも教室内の集会に警察官が警備情報の収集すなわち警察活動として立ち入つたのでは、たとい集会の内容そのものを監視する目的はないとしても、その立入りにより必然随伴的に集会が行政権力の査察のもとに置かれることとなり、その点で集会の自由は損われる虞れがあると言わなくてはならない。ただ本件集会が前に認定したとおりに学生職員に限らるべき学内集会として許可されながら一般外来者の入場券を購入して入場することを黙認する例に洩れない半公開的のものであり、ために警察官らが一般外来者に紛れて入場券を購入して入場したという事情にあるため本件において果して集会の自由が侵されたか否かを決するについてはなお極めて微妙な問題を残しているものとしてさらに十分検討する必要がある。警察法第二条はその第一項に「警察は、個人の生命、身体、及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつて責務とする。」と規定して、警察の責務の内容を定めている。前記第三の一、二で判示したとおり東京大学構内法文経二五番教室内で本件ポポロ演劇発表会が行われた際学生らに非合法活動の虞れがあるものと考えて本富士警察署警察官が右教室に赴き一般公衆も入場している様子を見て切符を購入のうえ入場して行なつた本件警備情報収集活動は、警備情報収集という点から言えば本項にいわゆる「犯罪の予防」もしくは「その他公共の安全と秩序の維持」という警察の責務の範囲に属するということができる。しかし同法第二項は、「警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつてその責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない」と定めている。そして警察官職務執行法(本件発生当時は警察官等職務執行法)はこれを受けて第一条第一項に「この法律は警察官が警察法に規定する個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等の職権、職務を忠実に遂行するために、必要な手段を定めることを目的とする。」と定め、同条第二項は「この法律に規定する手段は、前項の目的のため必要な最小の限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない。」としているのである。すなわち基本的人権を保障する憲法の精神とこれを受けた警察法および警察官職務執行法の精神によれば警察官の責務を遂行するに当つては基本的人権を侵害する虞れのある警察活動をその必要最小限度に止めるべきであるということを警察の基本方針としていることが明かである。ここで前記の警備情報収集活動が国民の思想、集会等表現の自由にかかわりを持つ限り必要最小限度に止められるべき性格のものであることは説明を要しないであろう。このような点を考慮に入れて本件警官の本件のような大学の教室内の集会に立ち入ることが必要最小限度の警察活動として是認されるものかどうかを検討すると、

(イ) 本件集会は演劇発表会であるとは言え巷間の興行と異り、やはりいわゆる学内集会の性質を失つていないものであることは、前に第四、二、4、(二)・(六)の項に認定したところから明かである。従つてその実質において管理がルーズで一般外来者の入場を黙認し、且つ政治的社会的活動を含むもので、学問の自由ないし大学の自治に基く特権を享受し得ないものであつてもそれに集会の自由が認められることはおのずから別問題である。

(ロ) 特に参集者の主体をなす学生らの推測しうる意思が警察官の査察のための立入りをも意に介しないとするものでないことは、集会に立ち入つた当の警察官はもとより常識ある者は誰れでも容易に知り得た場合である。

(ハ) 本件集会は、屋外集会に対比して警察権力による統制の必要性が少いことの一般に認められている屋内集会であり、それも大学の構内殊に教室内の集会でありしかも集会の目的から見ても平穏な性質のものである。

(ニ) 本件集会において、或は日共東大細胞が宣伝ビラを配布するなどの活動をする虞れがあると警察官において認めたとしても、この程度のことならば、管理者たる大学当局に通告してその調査または取締をさせるとか、或はその事由を告げて大学当局者と共に立ち入ることを求めるとか、より穏当な方法がいくらでも考えられる場合である。

以上(イ)から(ニ)までの事情が存在することの認められる本件のような大学教室内の集会に警備情報収集を目的として警察官が入場したのでは、たとえその方法が一般外来者に交り入場券を買つて入つた平穏なものであつても、集会の自由に対する関係ではついに前示の必要な最小限度を超えた警察活動であると評価しなくてはならず、従つてまた本件においては集会に故なく立ち入つたものとして憲法上保障された集会の自由を行政権力が侵す程度に達したものとしなくてはならない。

(3) そこで被告人らの判示行為が右のような本件警察官らによる集会の自由の侵害行為を排除するためになされた可罰性のないものであるかどうかについて判断する。

(イ) いわゆる超法規的違法性阻却事由について

弁護人は「権利の侵害が現在する場合、それを排除する行為の手段方法が相当であれば、その排除行為の違法性は超法規的に阻却されるものであるところ、警察官の本件集会立入行為は恒常的継続的なスパイ活動の一環として行われたもので、警察官が集会から退去しようとしているからと言つて右の継続的スパイ活動による基本的人権の継続的な侵害状態が現在していることに変わりはない。従つて侵害は現在し結局急迫な侵害があると言える。また被告人らの防衛行為によつて防衛された法益は基本的人権であつて言わば憲法的秩序そのものとして最高の価値を有するのに対し、被告人らの防衛行為によつて生じた損害は、憲法秩序を侵害しようとする国家権力の機関としての警察官で本来は国民から如何なる反撃を受けてもこれを甘受すべき立場にある者に対して発生したものである上に、仮りに訴因どおりの暴行があつたとしても極めて軽微なものに過ぎないから被告人らの防衛行為は手段方法において相当なものである」と言うのである。

おもうにいわゆる超法規的違法阻却事由があるというのは実定法としての刑法の諸規定を超越した特殊の違法阻却事由があることを意味するものと考えてはならない。それとともに違法性の内容を実質的に考え、違法性とは現存の実定法秩序の理念に反することであるということを前提として違法性が阻却されると見るべきか否かが問題となる具体的の諸場合について刑法の理念に照し妥当に解決するためには違法性の阻却に関する刑法の諸規定を解釈するに際し違法性の阻却される場合が必ずしも刑法の文理解釈によつて認められる場合のみに限定さるべきでないことを弾力的に認めるべき必要のありうることを肯定しなければならない。すなわちいわゆる超法規的違法阻却事由がある場合とは右のようにして刑法の文理解釈に限局されないで、しかし実定刑法の理念の許す範囲において違法性が阻却されることを認めるべき場合を指すにほかならないものであつて、その際刑法解釈に当つて考慮すべき指針として「目的の正当性」とか「法益の衡量」とかが機能するものと解すべきである。

被告人らの行為が集会の自由を侵した警官らに対し集会の自由を守る意図の下に行われたものであるとしても、その違法性が阻却されるとするためには、違法阻却事由を規定する刑法第三五条から三七条に現われた理念に照らし、「被告人らの行為の目的、態様(手段方法)を見ても、その行為によつて保全される法益と侵害される法益との権衡を見ても全体としての法秩序の理念に反しないうえに、被告人らのなした行為以外には適当な方法がなかつた」と言いうる事態の場合であることを要する。右のような場合であつて始めて刑法第三五条の認める範囲内の正当な行為であると言いうることとなる。然るに被告人らを含む学生らが本件において警察官らに対してなした行為は、前に認定したとおり、違法にではあるがしかし平穏に教室内に入り、見咎められて慌てて退去しようとしまたは既に教室外に退去した警察官を実力を以て押し止めまたは逮捕して連れ戻したうえ暴行を加えたものであつてその行為の意図した目的はともかく、その手段方法において法律的に許容し得ない実力の行使であるうえに、何よりもこの様な実力行使に出るほかに適当な方法がなかつたと認めることのできないものである。

何故なら当日の侵害行為について言えばそれは立入警官の退去行為によつて既に止んだ後のことである。後日も引き続きスパイ活動が不法に行われる虞れがあると言うのであれば、到底正々堂々と行うことの不可能なこの様な隠微な侵害行為に対しては実力に訴えないでもその後に平穏で且つ有効な防衛手段はいくらでも考えることができる。例えば大学当局を通じて正式に警察に申し入れるとか、集会自体の入場者を本来の学内集会にふさわしい様に限定すればよい。後者の場合切符の販売方法なり入場時の点検なりに多少の意を用いれば済むことである。

以上のとおりであるから、被告人らの行為にいわゆる超法規的違法阻却事由が存するという弁護人の主張は行為の目的に重点を置き過ぎたものとするほかなく、これを採用することはできない。

(ロ) 正当防衛、その他の主張について

弁護人が予備的に主張する正当防衛その他の事由について判断する。前に認定したとおり被告人らの行為は何よりもこの様な暴力行為に出るほかなかつたものとは到底認められない事情の下に行われたものであつて、右の事実からすれば被告人らの行為は到底刑法第三六条にいう「己ムコトヲ得ザルニ出デタル行為」であるとも、同法第三七条にいう「己ムコトヲ得ザルニ出デタル行為」であるとも認められない。従つてまた過剰行為の成否を論ずる前提をも既に欠いている。且つまた以上のような事情の下では他の行為に出ることを期待できないとは言い得ないのであるから被告人らが判示行為について期待可能性を欠くものと言うこともできない。

第五法律の適用

被告人らの判示所為は各暴力行為等処罰に関する法律第一条第一項、罰金等臨時措置法第三条第一項第二号に各該当するので、それぞれ所定刑中懲役刑を選択し、被告人千田については柴義輝に対する所為の罪と茅根隆に対する所為の罪とは刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文第一〇条により犯情の重い柴義輝に対する罪の刑に法定の加重をしたうえ、被告人両名に対し主文掲記の刑を定め、更に同法第二五条第一項第一号によりこの判決確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用については刑事訴訟法一八一条第一項により被告人らに全部負担させることとし、主文掲記のとおりその負担割合を定めた。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 安村和雄 岡垣勲 杉山英巳)

別紙

法文経二十五番教室見取図〈省略〉

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